28-1、書と人 徳川家康と犬養毅
古今語られる名言の中に「書は人なり」という言葉があります。時には書と人を見比べて意表を突かれることもあるでしょうが、おおむね「さもありなん」と合点することが多いのではないでしょうか。書は極めれば極める程、奥深い深みが増します。それは年齢を重ねて得た顔の皴の一筋一筋のようです。
歴史に名を刻んだ偉人たちも味わい深い書を遺しています。今週は「人と書」をテーマとしてご紹介します。
こちらは徳川家康の熊野懐紙の模写本です。家康が藤原定家を愛好したことはすでに多くの先学により明らかにされています。譜代大名である姫路酒井家に伝わったこの幅は、先般、詳細な研究が発表されています。(高橋利郎 新出の模写本「熊野懐紙〈河辺落葉・旅宿冬月〉」と徳川家康における藤原定家の筆跡愛好について 大東文化大学『大東書道研究第二四号』2017年3月)
起筆や終筆に丸みがあり、連綿を抑えた温かみのある書は定家の影響を強く感じます。
徳川義宣氏の指摘によれば、家康の書は天下取りを意識しだした文禄期以降、大きく変化したことがわかります。家康はこの時期、定家の子孫である藤原惺窩に学び、京の公家とも親しく交流しています。惺窩の門人林羅山は幕府の思想教育の根幹を担いました。この作品は、将来を期する家康の心をも映し出しているようです。
舌鋒鋭く論を張り、戦前の議会政治を盛り立てた犬養毅(木堂)は東洋事情に詳しく、能書として知られました。日本の書は明治になり、当時中国で盛行していた六朝を中心とする石碑に学ぶ風潮の影響を受け、野趣的で重厚な書に注目が集まりましたが木堂はこうした流れを批判的に見ていました。
流れるような切れ味のあるやや細身の線は、一画一画に伸びがあり、すっきりとした印象を与えています。宋の黄山谷あたりの影響を感じます。
精力的な木堂は大変多くの書簡のやり取りをしました。簡潔、明晰な内容は物事の真理をよく捉え、木堂の考え方がよく伝わってきます。中にはこのような書に関する話題もあります。
石刻の写真を一覧し、字体からすると六朝の字ではないと言い切っています。
この書簡は、木堂の慶應義塾在学中からの知り合いで、日本帝国政府経済委員などを務めた伊藤丈吉宛のものです。伊藤は、この1通を含めた計25通の書簡を2巻の巻子に仕立て、木堂に箱書きを依頼しています。
晩年、万年筆を得た木堂は大変気に入ったようで万年筆を使い、このような書簡も送っています。
毛筆はもはや実用から駆逐され、30年もすればペンの世となるだろうと語っています。
とりわけ木堂の思想を感じるのは冒頭の部分で、「日本人のものには和臭なかるべからず。若しこの臭が皆無れば即ち支那人のヘタなものになる。和臭ありてコソ支那人が感服するのである。感服する訳ハ彼子ハ和流が出来ぬからである。」と述懐しています。
明治時代の漢学や中国の書の崇拝は大国清に対する憧れでもありました。そのため日本の風は和臭と卑下されたのです。しかし木堂はそれを日本人のみが有する個性として和流と表現しています。正に一国の宰相に相応しい言葉ではないでしょうか。
書は時代を超えて相まみえることのなかった私たちを書き手と繋げてくれます。これこそ書の醍醐味といえるでしょう。(山﨑亮)
【掲載収蔵作品】
※1、徳川家康 模写本「熊野懐紙」 1幅 35.7㎝×50.5㎝ 紙本墨書
※2、犬養木堂 五言古詩 1幅 133.8㎝×43.4㎝ 絖本墨書 甫田鵄川氏寄贈
※3、犬養木堂 木堂四十有餘年間簡牘 2巻 上:25.0㎝×682.0㎝ 下:25.0×785.0㎝ 紙本墨書 高木聖鶴氏寄贈
【参考文献】
「家康の書と遺品」展カタログ 徳川美術館・五島美術館 昭和58年
名児耶明『書の見方』 角川学芸出版 平成20年