3、中林梧竹と三輪田米山

3-3、三輪田米山

 

梧竹と同時代には前田黙鳳、北方心泉、副島種臣など自らの表現を開拓して個性的な書を求めた作家が多くいます。
今回は三輪田米山(1821-1908)を紹介したいと思います。

 

松山にある日尾八幡神社の宮司の家に生まれた米山は、父から受け継ぎ60歳まで神官の職にあたりました。
その立場から神社や祭礼に関わるものを数多く揮毫し、日尾八幡神社境内の入り口には米山の手になる「鳥舞魚躍」注連石(しめ縄を渡すための石碑)が建てられています。明治13年(1880)米山60歳の書です。

 

 


※1、新倉勇一氏によって採拓されたもの

 

二人の弟は明治維新の動乱の時代に東京や京都に出て活躍しています。
そのなかで米山は家を守り、書を学び、一生を松山で過ごしました。

 

お酒を飲んでは筆を持つ豪放な人柄で知られた米山ですが、60年もの間丁寧に日記をつける細やかな一面もあり、書に対するこだわりも強かったと言います。


※2

 

当時から全国的にその書が評価されていたかというとそうではなく、地元松山を中心に親しみ愛された、いわば無名の存在でした。
平凡社、河出書房出版『書道全集』にもその名は確認できず、全国的な知名度を得たのは戦後になってからといっていいでしょう。

 

『墨美』4号(昭和26年)では実業家である山本発次郎が「無名の書聖三輪田米山―遺墨発掘編」に蒐集にかけた想いを綴っています。山本氏が米山の作品を蒐集しながら積極的に紹介したことによってその名は広く浸透したと言えます。

 

書は独学で王羲之の書や「秋萩帖」などを徹底して学んでいます。
もちろん当時頼山陽などの唐様の書が流行していたことは認識していました。
巻菱湖や市河米庵などの書法を身につけた日下伯巌の書を手本としていた時期もあり交流があったことから、様々な書や法帖も知っていたでしょう。
しかし、米山は王羲之に遡ってその書法を追求し尊重したのです。
だからこそ仮名も同様に仮名の始まりである草仮名の「秋萩帖」を求めたのかもしれません。

 

草仮名を多用した作が数多く遺っており、今回は万葉集を書いた一幅を紹介します。

 


※3

 

初めは「秋萩帖」の風が顕著にみられる作品を書くこともありました。
しかし、この作品は秋萩帖の本質を捉えながらも、肉太で大胆な自身のリズムを展開しています。
年紀はありませんが晩年ころのものでしょう。当時このような仮名作品を書くのも珍しいです。

 

薄い朱色で「米山」の円印が押されていますが、落款だけで印のない作品が数多くあります。
印に関してはあまりこだわりがなかったようです。

 

 

 

米山は誰かに師事するわけでもなく、ひたすらに王羲之や「秋萩帖」を範として自身の思う書を追い求めました。
生涯松山を離れず、地方にいたということも米山にとっては良かったのかもしれません。
梧竹のように中央の書壇で活躍し評価されていく作家が多いなかで、米山は後にも先にもないような個性的な書としてのちに評価されました。
米山の書には酒がつきもので、その時々の状況や心情によって作品も変化します。
理屈ではない人間味あふれる魅力がその書にはあります。(田村彩華)

 

【掲載作品】すべて成田山書道美術館蔵
※1 拓本「鳥舞魚躍」三輪田米山 明治13年(1880) 紙本墨拓 軸(一幅)114.0×38.0㎝×2 金木和子氏寄贈
※2「米山日記」三輪田米山 紙本墨書 まくり 27.3×20.2㎝
※3「万葉歌」三輪田米山 紙本墨書 軸(一幅) 131.0×62.5㎝