4、市河米庵と江戸の唐様

4-3、大田蜀山人 「七言絶句」「暫の図」

あなうなぎ いづくの山の いもとせを せかれてのちに 身をこがすとは
(「万載狂歌集」蜀山百首より)

 

成田といえば鰻ですね。
この歌の筆者、鰻を食べて過去に親しかった方を思い出し、恋焦がれているのでしょうか。
和歌が「雅」を重んじるのに対し、このような日常の「俗」に目を向け、滑稽な味わいを持つのが狂歌です。

 

今回ご紹介するのは、天明狂歌の三大家のひとりといわれる大田蜀山人(おおたしょくさんじん)の書です。
彼は生涯幕府の役人であり、寛政年間には支配勘定(今に例えると大蔵省の係長くらいでしょうか)として、七十過ぎまで働きました。
その一方で江戸文化の雄として、時世時節に狂歌、狂詩、黄表紙、洒落本、漢詩、随筆なんでもござれと筆を執ったのです。

 

通称は大田直次郎。号は蜀山人のほか、南畝、杏花園、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生など。
生まれは江戸牛込。武士の家とはいえ御徒役の下級武士、さらに大田家は祖父時代以来、扶持の禄を抵当に入れ、何年も先の給料まで前借り、というような状態でした。
しかし、教育ママの甲斐もあり、十五歳で内山椿軒の門に入門。
それから漢学や国学、和歌などを学び、後に狂歌の一時代を築く唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や朱楽菅江(あけらかんこう)らと知り合い、多芸多才な平賀源内とも交わっています。

 

少年は若干十九歳で、ハイティーン多感な若者から見た江戸の街あれこれ集、『寝惚先生文集』を出版して、狂歌ブームの中心に身を置くこととなりました。
やがて文壇の大御所として当代最高の文化人と評された彼は、絵師や画工、書家、儒者、俳諧師など身分に関係なく、町人の知識層との幅広い交流を通して、江戸文化サロンの中心人物となりました。

 

 

 

 

こちらは文政元年に古稀を迎えた蜀山人が、自ら詠んだ七言絶句を書いた漢字の作品です。
下絵は鍬形蕙斎(くわがたけいさい)が淡彩で小舟と桃花を描きます。
別世界にあろう平和で穏やかな理想郷・武陵桃源に重ね、老境にある静かな自身の心を詠んでいるようです。この幅からは最晩年の蜀山人そのものの姿が映し出されます。
力まず軽妙な筆致はどことなく張端図にも通じ、大陸の書の動向にも関心を抱いていたことがわかります。この作品の書も画も、当意即妙でありながらじっくりと練られたような妙技を発揮しています。
両者の魅力が相まって華やかさが際立つ一作です。

 

また、蜀山人は成田山に御縁があります。

 

成田山に、歌舞伎十八番の一つ「暫(しばらく)」の主人公鎌倉権五郎景政を、七代目市川團十郎が演じている舞台姿を描いた大絵馬が伝わります。
画は新川斉万太郎によるもので、賛を蜀山人が仮名で記しています。
同様に、同じ演目を初代歌川豊国が描き、蜀山人が賛を連ねた幅が、早稲田大学演劇博物館にも所蔵されています。

 

 

千葉県指定有形民俗文化財 「暫の図」 文政6(1823)年 《成田山霊光館蔵》 高名は江戸三階にかくれなき芸の鑑の天下市川

 

ところで五代目のころから、團十郎を支援する組織「連」が存在しました。
その中に蜀山人を中心に組織された「四方連」があります。
地縁には規定されない連は、身分を超越して交流する江戸の文化サロンの活動とも重なり、團十郎の支援基盤にもなりました。

蜀山人が時同じくして熱心に支援したのが七代目市川團十郎。
その團十郎が肝いりで建立したのが、今はなき成田山の通称第一額堂です(昭和40年に焼失し、現在の額堂は第二額堂)。
その額堂に、ご紹介した絵馬は掲げられていたのでしょう。
額堂は今日的に言うのであれば展覧会場の役目を果たしていました。あちこちから成田詣に訪れる庶民に親しまれ、賑わいをもたらしたことが想像されます。

 

 

 

先にご紹介した書画幅、そして成田山の大絵馬から、蜀山人をとりまくものが見えてきます。
江戸の人々は「雅号の使用によってそれぞれが変身し、身分を超越した文化活動の場に上昇転化することができた」(『江戸社会史の研究』竹内誠著といいます。

蜀山人の筆跡を通して、華々しく花開いた化政文化の魅力が伝わってくるようです。(谷本真里)

 

【ご紹介した作品】
「七言絶句」98.6×29.7 成田山書道美術館蔵
「暫の図」182×121 成田山霊光館蔵