5、田近憲三拓本コレクション
5-3、 同時代の漢字文化圏の広がり
三国時代は戦乱が相次ぎ、国力が疲弊した時代でした。このため、魏の曹操は碑を立てることを禁止する法令を発布しています。しかし、中原での三国の拮抗は、三国の関心を国外へ向けることにつながりました。
朝鮮半島は前漢の武帝が楽浪郡を設置し、以来中国の出先機関として機能していました。しかし後漢末の混乱に乗じ、勢力を張った公孫氏が割拠して外憂の種となっていました。燕王と称して反旗を翻した公孫淵に対し、魏は238年、名将司馬懿を派遣して討伐にあたります。
蜀の諸葛亮と死闘を繰り広げた司馬懿に公孫淵はなすすべなく破れ、ここに公孫氏政権は滅びました。この情勢変化に素早く対応したのが邪馬台国の女王、卑弥呼です。卑弥呼は早速魏の明帝に使者を送り、魏の冊封体制に入ります。その証が「親魏倭王」の称号です。日本もまた、この一件で中国との国交が回復したのです。
魏の朝鮮半島への進出はその後も続きました。軍を引き継いだ配下の毌丘儉は高句麗を攻め、首都丸都を落とします。その時の功績碑が「毌丘儉丸都紀功刻石」です。
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一方、西南の蜀は丞相の諸葛亮が自ら雲南に遠征するなど、版図を広げる活動の結果、多くの異民族を従えることに成功しました。建寧の名族として知られた爨習もその一人です。かつて瘴癘の地として恐れられた未開の地に漢文化が到達した証は、爨氏の末裔が遺した「爨寶子碑」「爨龍顔碑」(ともに二玄社『書跡名品叢刊』の底本)に表れています。作為のなさが注目されて、現代でもよく臨書される石碑ですが、唐代には西と東に分かれ、東爨では唐人との会話が通じなくなるほど隔絶した絶域でもあり、辺境の遺物として注目されるものです。
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東呉に君臨した孫権は、今ではベトナム領に至る交州を支配し、三国の中で最も長く国家を維持しました。孫呉政権末期の不安定な情勢の中、同地を守った谷朗の碑が遺されています。唐代に褚遂良が配流されるなど、中原から遠く離れた地ですが、前漢代から中国の冊封体制に入っており、古くから中国文化と触れ合っていました。古厚の味わいの隷書は、楷書の風も感じられ、当時の呉の空気を感じることができます。『書品』130号で紹介されるなど、良拓として知られた拓本です。
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田近コレクションの面白みは、時代や地域を超えたスケールの大きな蒐集にあります。今後より広範な分野の研究資料として認知されることを期待しています。(山﨑亮)
【掲載拓本】
※1毌丘儉丸都紀功刻石 正始6(245)年 成田山書道美術館蔵
※2爨寶子碑 義熙元(405)年 成田山書道美術館蔵
※3爨龍顔碑 大明2(458)年 成田山書道美術館蔵
※4九眞太守谷朗碑 鳳凰元(272)年 成田山書道美術館蔵