7、西谷卯木

7-1、西谷卯木「花の四季」

 

当館では西谷卯木の作品コレクションを一括して収蔵しています。

昨年2月に「歿後40年 西谷卯木の仮名」展を開催しました。

 

 

 

 

明治37年(1904)兵庫県神戸市に生まれた卯木は、16歳の時に安東聖空に師事し、近藤雪竹の指導も受けて文検に合格、高等女学校の教師となりました。

正筆会の創立にも参加しています。

昭和20年、神戸の空襲に遭って左手を失いハンディを背負いますが、教師を務めながら制作に励みます。

戦後正筆会が再び結成されるとこれに加わり、安東聖空のあとを受けて会長も務めました。

 

聖空は平安古筆の簡素美を追求しましたが、卯木は良寛の線質と造形に惹かれ自らの書に取り入れました。

仮名の作品に古筆以外の要素を取り入れることは、これまでの仮名とは一味違う新しさがあるように感じます。

 

 

今回は昭和53年に開催された個展の出品作「花の四季」を紹介します。

 

 

※1 「花の四季」巻頭

 

「花の四季」巻末

 

 

 

 

 

 

 

「新古今集」から花の歌を10首抄出して書いています。

色変わりの地に芥子や桔梗などの摺り絵を施した縦40㎝ほどのある大判の料紙を巻子に仕立てたもので、田中親美によるものです。

親美が解説や代筆を頼むなどして厚い信頼を寄せていた鈴木梅渓(1887-1973)が、親美から譲り受けいつか作品にしようと大切に保管していた巻子本です。

しかし、その願いは叶うことなく亡くなってしまい、その後梅渓の妻ちを氏が、生前親交の深かった卯木にぜひ使ってほしいと渡しました。それをすぐに作品にしたようです。

卯木没後、ちを氏は、

 

田中親美先生は巻物製作についてのご説明ばなし。又、先生のお側におりました梅渓はその巻子にとうゝゝ書けずこの度卯木先生にご染筆いたゞいての御礼を。そして又卯木先生はご病後でのご執筆にてご苦労なされし御話など、にぎやかにかはされつゝ今は遠岸のかなたにて永遠にかわることなき温かき心の交流を楽しみながらの日々あられませうと思います。時天よりの剛毅なる高笑いのお声がひびいて来るようでございます。(鈴木ちを「田中親美先生と鈴木梅渓」『田中親美先生について』私家版 昭和55年)

 

と、親美、梅渓、卯木が集まり談笑しているのではないかと想像しています。

 

巻子本に仕上がっているものに墨をのせる緊張もあったのか初めは固いですが、だんだんとなじみ自由に動くやわらかな表情に変わっていくように感じられます。

 

 

卯木はこの前年、大手術を受けて自らの余命を意識することになりました。

個展をはじめとする没年の53年に制作された作品は多彩な表情を持っています。

細身で息の長い線で書かれた「落葉」、手術から目覚めて痛みを実感した時の自詠歌を作品にした「深沈と」など、歌に対する思い入れが感じられます。

 

 

※2 「落葉」

 

 

 

 

※3 「深沈と」

 

 

 

 

 

深沈とふけゆく夜にめさめゐて生きのいのちの痛みにたへをり
昭和52年10月25日、胃潰瘍手術の麻酔よりさめて

 

 

卯木は過去に3回の受難があったと回想しています。

1回目は、昭和20年3月、神戸の空襲で左腕を喪くしたこと。

2回目は、昭和36年8月、突然声が出なくなり、のどにポリープができたこと。

3回目は、昭和52年9月、胃潰瘍になり手術をしたこと。

この状況にも卯木は、「人生にはマイナスはない。マイナスをプラスにするところこそ人生があり、生甲斐があるのだと確信した」と言っています。

 

こうした逆境を乗り越え、障害を抱えながらも、それをプラスにして絶妙なバランス感覚が息づいた作品を遺しています。

 

筆や紙、墨色などを十分に配慮し、規制にとらわれない大胆な卯木の表現はそれまでの仮名とは違う新しさに満ちています。

きっとそれは、歌を作り、古筆の背景を理解し、良寛や墨跡、中国書画にいたるまでのあらゆるものを自らの表現に取り入れて昇華させることができたからでしょう。

この姿勢を貫いたからこそ多彩な表現が可能になり、作品それぞれにふさわしい表現によって卯木らしい作品をつくることができたのだと思います。(田村彩華)

 

 

【掲載作品】すべて成田山書道美術館蔵
※1「花の四季」西谷卯木 昭和53年個展 39.1×532.5㎝ 彩箋墨書 一巻 西谷敬氏寄贈
※2「落葉」西谷卯木 昭和53年個展 20.5×17.5㎝ 彩箋墨書 一面 榎倉香邨氏寄贈
※3「深沈と」西谷卯木 昭和53年個展 37.2×50.9㎝ 彩箋墨書 一幅 西谷敬氏寄贈