8、今関脩竹
8-3、今関脩竹 絶筆「ある日わが」
今関脩竹の絶筆を紹介します。
昨年、藍筍会(会長清水透石先生)に寄贈していただきました。
当館ではご遺族の方、藍筍会の方に御作品を一括してご寄贈いただき、過去に今関脩竹展を開催しています。
こちらはまだ当館では展示したことのない作品です。
病室のベッドの上で精魂傾けて書いた一作です。
島木赤彦が病床で詠んだ歌を書いています。自身と重ね合わせているのかもしれません。
二か月間点滴で過ごしていましたが、構想が湧いたからか墨を磨ってほしいと奥様に頼み、ベッドから起き上がって一枚だけ書いたもので、そのあとすぐに集中治療室に入ってしまいました。
「あの状態でよく書けた」と奥様も驚くほど。でも、「筆を持ったらぴしっとして、これなら大丈夫と思いました」と奥様は言います。
書いたあとも「囀りし」のあたりを気にし、「終わりの二行が気に入らないから明日もう一回書き直そう」と言っていましたが、もう書けませんでした(「聞き書き 今関脩竹のことども」語り今関小枝子)。
普段から量を書き込んで仕上げていたため、この作品は不本意だったに違いありません。何度も考え直した草稿もたくさん遺っていたといいます。
しかし、本人が気にしていた「囀りし」に弱さはなく、力を振り絞って書かれた渇筆に思いが込められているようにも感じます。
この作品は亡くなった翌年(平成2年)の現代書道二十人展に遺作出品として展示されました。
脩竹は、生涯のほとんどの時間を作品制作と学校教育、門弟や学生の育成にあてたといいます。
また、浩宮様(現在の天皇陛下)への御進講役を12年間務められました。
脩竹が思うままに書に専念できた裏には、献身的な奥様の支えがありました。
家のことは一切せず、勉強一筋だったという脩竹の部屋には大量の蔵書があったといいます。
家は七坪の狭い家だったといい、奥様が「こんな家で恥ずかしい」と言ったら、脩竹は「勉強しないほうがよほど恥ずかしい」といったエピソードがあるほど。墨や紙は特に選ばない。高いものは買わない。とにかく腕一つなんだ。と。質素な生活のなかでも書において妥協は許さず、その姿勢を貫きました。
奥様とは小学校の同僚で、同じく高塚竹堂の門下でした。結婚して奥様は書を辞め、あらゆる面において脩竹を支えました。決して裕福な生活ではなく、書家としての地位もなく、というころから必死に書道に向き合う脩竹を支え、苦労を共にしてきたのです。
その奥様が最後まで大事に部屋に掛けていたのがこの作品です。これまでの軌跡を思わせる愛着のある作品だったのでしょう。
男性的で荒々しくも枯淡な表現が魅力な脩竹の作品のなかでも晩年の作は、慎重な筆運びで枯れた表現のなかに内包される強さを感じ、脩竹の人柄が映し出されているようです。(田村彩華)
【掲載作品】
「ある日わが」今関脩竹 平成2年現代書道二十人展(遺作出品) 69.0×115.0㎝ 紙本墨書 一面 藍筍会(会長清水透石氏)寄贈 成田山書道美術館蔵