9、革新的な表現
9-3、革新的な表現 大澤雅休・竹胎
昭和8年、「現代に活きて居る吾等には自ら現代の書がなければならぬ」として書道藝術社が結成されました。そこには多様に現代書を求める者たちが集まりました。いわゆる前衛書の二大潮流もそこに端を発します。上田桑鳩(9-1でご紹介)を中心に昭和15年に設立された奎星会と、大澤雅休を中心に昭和13年に設立された平原社です。
大澤雅休は、俳句を村上鬼城に学び、大正5年には『ホトトギス』に詩や小説を発表、アララギの会員となりました。同11年には短歌の結社を主宰し、『野菊』を発行します。本格的に書に取り組みはじめたのは40歳も間近、比田井天来に入門したのは43歳のことです。農村の民衆に密着して「人の内面の表出」を意識し、現代人のありのままの姿を作品に投影しました。雅休はことばによる繊細な感情の表現を大切にしています。
この作品は自身が好きな言葉を書いた、最晩年のものと考えられます。「朝に塩づけの野菜を食べ、晩に塩をなめる」とは、農村に懸命に生きる人びとの生活を思わせます。濃墨を使い、それぞれの画が力強く、個を主張しています。群による力で全体の紙面を支配する作風は、見るからに圧力があり、ソウルフルです。
第6回書道芸術院展出品作「淵黙雷轟」や、現代書に疑問を呈したことでよく知られる「黒岳黒谿」にも通じる作風です。
大澤竹胎は、雅休の一回りほど年下の弟です。25歳で高塚竹堂に入門して主に仮名を学び、比田井天来・小琴にも益を受けました。一時は門弟数百人を数えるほどでしたが、「書家は教えては作家になれない」とし稽古場を閉鎖、制作に集中しました。雅休とともに平原社の核として働き、棟方志功と出会ったことで、板画と書を融合させた作品を手掛けたりもしました。
理念を先行させる兄に対して、竹胎は感覚的で抒情豊かな作品を数多く遺しています。題材は日本の詩歌が多く、この作品も万葉歌を単体で書いています。雅休や竹胎は、王朝的な叙情性よりもいまを生きる人びとの内面を投影する力強い言葉を選んでいます。大内魯邦が「先生は子供を愛し、童書の美を高く評価しておられた」と伝えるように、竹胎童子は「万年童心でありたい」と願う、素直で純粋な想いを作品の前面に出しました。制作意欲は旺盛で、「誰が何といっても止められなかった」といいます。そういった感性が、竹堂のもとで学んだ仮名と相まって、独特の書風を築いています。
両者ともに文学や絵画、音楽、さらには教育や農業問題に造詣が深く、あらゆる手段で自己の感興の表現を試みました。なかでも書による表現を最善のものとして選択し、現代に見合う書を模索しました。古典に内在する美や要素は、彼らのなかで再構築され、融合し、時として稚拙とさえ思える作品を生みだしますが、それは決して彼らの精神に反するものではありませんでした。
雅休の率いた平原社では、自らの肌で感じる時代の空気を作品に刻み、大衆的なヒューマニズムを尊重しました。やがて大澤雅休は昭和28年、竹胎は同30年に亡くなります。しかしながら彼らが築いた流れは、その後の昭和33年から昭和43年にかけて開催された毎日前衛書展の動きにもみられるように、時流を先導したのです。1960年代には百花繚乱のごとく前衛的な書が花開きます。(谷本真里)
【ご紹介した作品】
大澤雅休 「朝薺暮塩」一面 57.9×54.1
大澤竹胎 「とりがなく」一幅 20.8×47.7