10、書のことば、書のかたち

103、書のことば、書のかたち

千代倉桜舟 「春殖」

 

桜舟は戦前、伊藤芳雲に仮名を、山口蘭溪に鳴鶴系の漢字を学びました。太平洋戦争後、4年間に亘るシベリア抑留生活を経て帰国。その過酷な体験や胸に刻まれた砂漠の情景は、やがて書作の大きな糧となりました。また、復員後は大澤雅休に出会い、率直に個の内面を表出しようとするその思想に感銘を受けます。戦前は古筆に倣った王朝的な仮名に傾倒していた桜舟でしたが、戦後はその世界に戻る気にならなかったといいます。

昭和24年の書道芸術院展の出品作は、戦後のすっかり変わった世相、廃墟と復興の混在を目の当たりにしてとまどう思いを自身の「ことば」で表現しました。漢字・仮名・片仮名・アルファベットを書いた作品「GO STOP(ヘリオトロープの花は…)」です。

桜舟は書壇に属しながら、後半生は大規模な個展をたびたび開いて、左横書きの形式や仮名の小作品、濃墨大字の平仮名で大きな壁面を埋め尽くす超大作などを発表しました。親交の深い宗左近や自詠の「ことば」を積極的に選んでいます。また、世界の大自然や遺跡を周り、「ことば」や「かたち」にして発表しています。

 

 

 

 

これは平成元年に発表した「春殖」、左右が18メートル(本紙)にもなる巨大な作品です。黄河上流の景観を目の当たりにし、その黄河の渦からこの作品の「かたち」が生まれました。「動と勢と渦の調和美の線表現」に草野心平の詩を重ねる手法を思いついた桜舟は、ひたすら「る」を書き連ねます。

心平の二十四字の「る」は、蛙の鳴き声であるとともに、春のうららかな気候に蛙の卵が連なる「かたち」でもあるようです。しかし、桜舟のこの作品では、心平のメッセージと、その世界とは無縁な黄河の渦による「かたち」を融合させています。作品には、そよぐ風のような軽い筆致に筆ののどもとまでつぶして引くような荒々しい筆致、淡墨と濃墨、繊細な遊印に量感に富んだ落款印など対照的な表現技法が混在しています。

桜舟は書を「目で捕えたものを頭で整理して、それを如何に運動神経で表現していくか」と語ります。墨を含ませた筆を抱えた桜舟は、大きな紙面に野球のスライディングのように体当たりしていたといいます。大自然、特にどこまでも広がる砂漠の光景に心を奪われた桜舟のスケールの大きさが、如実に表れた作品です。

 

「春殖」は、もとの「ことば」の意図とは離れ、その「かたち」を借りて独特の世界観を演出しているところがおもしろい作品です。平成を迎えて制作されたこの大作は、それまでの東洋的、文人的な書の在り方とはかなり異なったところに位置しているようです。(谷本真里)

 

【ご紹介した作品】
「春殖」個展 八曲一双 200×1800