10、書のことば、書のかたち
10-4、書のことば、書のかたち
中島邑水「丘」
邑水は昭和8年に26歳で文検に合格し、書道教師として高崎市立女子高等学校で働いていました。ある時比田井天来の講習を受けました。日頃、形式的な書に疑問を抱いていた邑水はその想いをぶつけるためにさっそく書学院の門をたたきます。しかしその時天来は留守で、対応したのは同郷の大澤雅休でした。前衛的な書へ向かう気持ちはもともとありませんでしたが、昭和10年、雅休に師事し、天来の益を受けることになります。
「私は古典にしっかりと足を踏まえて現代の息吹の中から生まれ出る新しい書を念じ続けている」とは初期のことばで、雅休門下で最も古典を学んだのは邑水だろうと、田宮文平は伝えています。邑水は、平原社を支え、昭和43年には「新たなものを生み成す」(『詩経』より)、生成社を興します。
この作品は晩年の作品「丘(きゅう)」です。一見すると、何を書いたのかわかりません。タイトルに目を向けると、どうやら「丘」という字を書いているらしいことがわかります。なんとなく丘の字にもみえるようですが、見る者は丘の字と定かに判定することはできない、抽象的な造形です。
邑水は、アテネの神殿の丘に立ち、高く聳える連山を目の当たりにしたときの印象を長らく胸に秘めていました。そこで洋の東西を問わない「古代のひとびとが神につかえまつる厳粛な姿」を想い、この作品を制作したのです。昭和52年の個展の作品集では巻頭を飾っています。
この時の「めぐり逢い」には、「雅休先生の一貫した指導理念が、自覚ある書活動を生み、現在は、更に発展して甲骨文の直線の厳しさ、簡潔な、清く、雑物を叙去した純粋な表現活動を展開しようとしている」とあります。書くことが崇高ないとなみであった時代の文字を基に、原始的な文字の骨格を遺しながら独自の動きを加えた作品を一貫して生み出し続けました。
邑水は文字を大切にしています。「現代に通用される文字を選んで、その文字に、自由に筆意を加えた」とする邑水は、「如何なる大作にしても通用する力を備えているいのではないか」という自らの考えを実証すべく、そこに現代書としての活路を見出そうとしたのでしょう。
また、邑水は線に哲学的思考を求めました。法悦状態で現れた線によって生み出される作品にこそ人格が表れるとし、そこに「心声」(10-1より)を求めたように見えます。「ことば」は文字を借りて表現される「心声」です。この作品は、書表現における前提を示すものがあります。
こうして「ことば」と「かたち」に注目し、その関係を探ると、現代書ひいては書といういとなみの根源がみえてくるようです。(谷本真里)
言は心の声なり。書は心の画なり。(揚雄)
【ご紹介した作品】
「丘」昭和50年毎日書道展 一面 89.8×53.5