11、手紙
11-4 谷崎潤一郎宛書簡 安田靫彦
安田靫彦(1884-1978)は日本橋の料亭「百尺(ひゃくせき)」三代目の四男として生まれます。画家を志したのは、明治30年の日本絵画協会共進会による展示がきっかけでした。そこには因習的な日本画に変革をもたらすべく横山大観や菱田春草が集まり、指導者として岡倉天心もいました。靫彦は明治31年にその会員の小堀鞆音に師事します。号は、鞆音の師である川崎千虎から与えられました。歴史画を得意とした靫彦は、日本美術院の再興時代に、経営者同人として第二世代をリードしました。
この屏風は、靫彦から谷崎潤一郎に宛てた2通の書簡を上部に、靫彦が手がけた潤一郎の『少将滋幹の母』の装丁原画を下部に貼り込んだものです。靫彦の手になる書簡は幅のある仮名を基調とし、筆はすっかり手に馴染んでいる書きぶりです。宛先の潤一郎もまた肉筆時代の文豪として、書斎に美麗な蒔絵硯箱を備え、日常的に手紙や短冊などに筆を執った能書でした。この書簡から、互いに日常的に書をしたため、篤く交流した様子が目に浮かびます。
右端から貼り込まれた1通目は、昭和24年11月から翌年3月にかけて毎日新聞に連載されたその小説の挿絵画家に、小倉遊亀と中村貞似を推薦する内容が書かれています。「全く迷ふので有りのまゝ申し上げる次第です」と、あくまでも潤一郎に選択を委ねています(結果、遊亀が指名されました)。2通目は、1通目で選ばれた遊亀の仕事ぶりを気に掛けながら、潤一郎から贈られた『細雪』の感想を伝えています。また、静養中であることを伝え、知人の死を悼む内容などが連なっています。
この書簡における靫彦の書は、余白の取り方、点の分布などが造型的で緻密ながらも、それを感じさせない自然な趣です。草書の崩し方は、羲之や懐素にも通じます。絵と書によって培われた靫彦ならではの清澄な線で条々と書き進められ、丁寧な筆致が潤一郎への敬意を感じさせます。このように書の技量は確かなもので、昭和29年の「斎宮女御」や昭和31年の「良寛和尚像」などのように仮名で賛文をしたためた作品もあります。
靫彦の芸術には、古美術から学ぶ姿勢が下敷きにあります。23歳の時、天心のはからいで奈良に赴き、法隆寺金堂壁画の模写などに携わったことは大きな契機となりました。また、三渓原富太郎の援助を得たことも幸いでした。とりわけ良寛の書において高い鑑識眼を持ち、優良なコレクションを形成した靫彦は、昭和35年に筑摩書房から『良寛』を発行しています。良寛堂建立に際して中心的役割を果たし、その顕彰活動に力を注いだことでもよく知られます。
靫彦の書画に目を向けると、日本画家として歴史に謙虚に向き合いながら、新しい時代を生きる靫彦独自の洗練された表現を見出したことがわかります。この貼り混ぜ屏風には、書画の領域を自由に往還する靫彦の魅力が詰まっているようです。(谷本真里)
【ご紹介した作品】
谷崎潤一郎宛書簡 六曲半双