14、松本芳翠と辻本史邑
14-2 松本芳翠 「談玄観妙」
漢字の各体に通じ、なかでも「楷書の芳翠」と評された松本芳翠。その芳翠の設立した書海社が来年100周年を迎えます。機関誌『書海』には、松本芳翠の手になる書が必ず手本として掲載され、その書法は今も脈々と受け継がれています。書団体の多くが現役の先生の手本をメインに掲げ、時代とともに書風が変化していきますが、同会は創立時から変わることなく芳翠の書法を中心軸に伝えています。その品格は、今日においても不変です。ここ成田山では、芳翠の跡を継いだ谷村憙齋先生、谷村雋堂先生が、長年にわたって書道の講師を務められていることから、その風を倣う僧侶が数多く存在します。当館では平成23年に書海社90周年の記念を兼ねた、松本芳翠墨華展を開催しました。
松本芳翠は、明治26年、愛媛伯方島に生まれました。本名は英一。明治薬学校を出て家業を継ぐつもりでしたが、薬剤師の国家試験に受かるも未成年のために免許状が交付されませんでした。大成中学校4年に編入して勉学を続けていたところ、習字科の加藤芳雲に出会い、書と漢詩の手ほどきを受けます。やがて上京して近藤雪竹に師事し、日下部鳴鶴にも益をうけました。大正11年の平和記念東京博覧会で第一等賞金碑を受領し、日本郵船会社を辞して書家として立つところとなりました。
芳翠は、前半生は長文の詩を書いた多字数作品が多いですが、晩年には昭和29年の「雄飛(大鵬一擧九萬里)」や今回ご紹介する「談玄観妙」のような少字数を大きな紙面に収めた作品もしばしば見られるようになります。
「談玄観妙」は、昭和34年の日展に出品し、翌35年に日本芸術院賞を授賞した作品で、芳翠の書業を語る上でもっとも重要な作品の一つです。「談玄悟道言・観妙滅塵想」の五言二句を対聯様式に行書で書き、額装に収めます。それぞれの行頭に注目すると、「談」は偏と旁を寄せることで密に、「観」の「見」部分はぎゅっとすぼめ、偏と旁は離して疎にします。この「談」と「観」が並ぶことでバランスを保ちます。句のまとまりのみならず、このような対比構造を念頭に仕上げているようです。根底には王羲之から趙孟頫へと連なる帖学の正統な行草の筆意があります。
ところで、芳翠の書道史研究として最も知られるのは、唐の孫過庭筆「書譜」の紙の折り目に節筆を発見したことでしょう。元祐本書譜が明代の坊刻本であることを指摘し、墨蹟本書譜が孫過庭の真跡であるという現在の定説を、昭和4年に『書海』で論じました。このことからも、あらゆる古典をつぶさに観察して分析的に捉え、真摯に向き合った姿が垣間見られます。芳翠は「眼識が停頓して進むことがなければ、単に腕達者といふだけで、到底佳書を作ることは出来ない」と言います。「談玄観妙」もこうした「眼識」と研ぎ澄まされた手腕から生み出されたのです。
また、芳翠の澄んだ線は、特に用筆に関する信念から生じているようです。芳翠には、『楷書指針』など筆の性質とその使い方について詳しく論じた著述も目立ちます。それらのなかで、「弘法筆を選ばず」ということばは、空海はどんな筆でも相当に使いこなすという意味で、「能書の人ほど実は筆を選ぶものなのである」といいます。
筆者は湯島聖堂で芳翠門下の松川玉堂先生に手ほどきを受けたことがあります。筆の形態と用筆法こそが芳翠流の要であることを体感しました。芳翠のキリッと筋の通った表現は、几帳面な分析と探究心に支えられているようです。理系頭ならではの「理系書(リケショ)」とでも表現したくなってしまいます。(谷本真里)
【ご紹介した作品】
「談玄観妙」昭和35年日本芸術院賞 紙本墨書 一面 各169.9×41.6