14、松本芳翠と辻本史邑

14-3、辻本史邑「白楽天詩」

 

芳翠(1892-1971)と史邑(1895-1957)はどちらも近藤雪竹の門下で戦後の書壇をリードした存在として知られています。

芳翠は伝統主義を尊重し、雪竹の風を基礎としながらも端正な唐時代の書や王羲之書法、また趙子昂を好んで学び、そこから生み出される品格高い書は多くの人に親しまれました。

芳翠が関東で活躍したのに対し、史邑は関西で名をあげた人です。

母校の奈良師範学校や奈良中学で教鞭を執り習字教育者として知られた史邑は、大正14年に寧楽書道会を創立すると書道研究誌『書鑑』を刊行し、学校教育の枠を超え、古典を重視した書の普及に力を注ぎました。戦後、書が日展に参加すると、漢字作家として関西からは唯一審査員に選ばれます。同時に、日本書芸院の会頭に就任して関西の書壇を牽引する立場として重要な役割を果たしました。今日の関西書壇隆盛の礎を築いた存在と言っていいでしょう。門下からは村上三島、広津雲仙、今井凌雪などその後の書壇を支える多くの人材を輩出しています。

 

今回は辻本史邑の晩年の作を紹介します。

 


 

 

 

これは昭和32年、最後の日展出品作と同時期に制作されたものです。この時、病に侵されていましたが作品からその様子は感じさせません。やや荒いタッチで、思うままに書き進めているようです。同じような構成で何枚も書き、押印までして最後までどの作品を出品するか悩んでいたのでしょう。結局この作は出品しなかったものですが、装丁まで施し大切に遺されていました。

 

同じ額の中に、これとは別の草稿と思われる一作も遺っていました。

 

 

日展出品作は村上三島記念館に収められています。


『近代日本の書』芸術新聞社 より転載

 

史邑は、鳴鶴や雪竹の風をもとに漢から唐時代の古典を中心に正統な書を学んでいましたが、山本竟山とともに昭和5年、7年と2度中国に渡り、碑法帖を蒐集すると同時に明清の書に強い関心を示しています。西洋風の天井の高い大空間に適応するためにはと、戦前から長条幅の研究をしていました。
史邑の書風は幅広く多彩で、師風の書を基礎にしながらも、劉石庵や王鐸、何紹基、金農などの明清の書を取り入れ、晩年には富岡鉄斎、仙厓らの表現にも傾倒しました。
この作品は、文人的な感覚が息づいた史邑の書の特徴がよく表れた一作です。(田村彩華)

 

【掲載作品】成田山書道美術館蔵
※ 辻本史邑「白楽天詩」 昭和32年 紙本墨書 一面 68.6×67.2 辻本妙子氏寄贈