14、松本芳翠と辻本史邑

14-4、「書道ニ関スル建議書」

 

 

 

 

日本書道作振会から始まり95名の署名を寄せたこの「建議書」
尾上柴舟、中村不折などの名が確認できます。

芳翠や史邑が活躍したこの時代、大正時代の終わりに東京府美術館が開館することになりました。東京府美術館ができるまでは日本には公立の美術館がなく、画家や工芸家、彫刻家などの美術家たちが運動をおこし、国に働きかけてつくったのがこの東京府美術館です。実業家である佐藤慶太郎の篤志によって実現しました。建設資金を東京府に寄付したのです。

開館まで書の作品を展示する計画はありませんでしたが豊道春海(1878-1970)は、日本書道作振会の第一回展を上野の美術協会で開いたあと、第二回展は東京府美術館での開催を希望し申し立てました。しかし、日本画や洋画の美術団体からは、洋風の壁面で天井の高い美術館は書に合わないと反対されてしまいます。そこで豊道は、佐藤慶太郎を訪ねて(出資もとに行って)お願いをして賛同を得、その結果を携えていったことで府知事の賛意を得ることができます。その時に豊道はこうした建議書を作ったのです。

 

 

建議書の冒頭には次のようにあります。

 

 

 

 

豊道は、「書は六芸の一にして東洋独得の芸術たり。人あれば言語あり言語ある所必ず文字あり。是を美化したるものを書道と為す。書道は心の精華人格の表現なり…」と書き始め、書道は日本の伝統的な文化として大切であり、このような会場に書道の作品を展示することに大きな意義があると熱望しています。

この他にも豊道は、日展の書の新設や小中学校における習字教育の復興のために尽力し、日中交流などにも力を注いでいます。様々な場において書道というものを位置づけようとしたのですね。

 

建議書と一緒に名刺も遺っています。

 

豊道春海本人のものと貴族院議員の戸澤正己、衆議院議員の関直彦の名刺です。

戸澤氏の名刺には、自身の書道の師匠である豊道を紹介し、よろしくお願いしますと毛筆で書き込んでいます。

また、関氏の名刺には「書道作振会建議の趣旨御採用被下度、先年平和博覧会の時御賛助致せし歴史も有之候。」と添えられています。大正11年に開催された平和記念東京博覧会では、「書及篆刻」として書道の部門が設けられ、そこに賛助していた歴史もあることから、今回の東京府美術館で書道展をすることも受け入れてほしいと伝えています。

豊道はこうした方々の賛助を得て、建議書を持って東京府知事である平塚廣義に会いに行ったのです。この建議書は実際に東京府知事の手に渡った原本と思われます。

 

こうして豊道の努力が実を結び、晴れて第二回日本書道作振展が東京府美術館で開催されます。それから東京府美術館(現東京都美術館)で書道展ができるようになりました。その後、日展や毎日書道展、読売書法展などの様々な書道展ができた時も東京府美術館が会場になります。

東京府美術館は西洋的な建築で、その空間に展示される書道の作品が現在の私たちにとっては当たり前のように感じます。しかし、このような会場でなければ額などの大作は生まれなかったかもしれません。作品は会場に影響されるところがあるのだと思います。

この建議書は、書道が展覧会主義になっていく転機となったものではないでしょうか。(田村彩華)

 

【掲載資料】成田山書道美術館蔵
「書道ニ関スル建議書」大正15年 東京府知事平塚廣義あて