15、日下部鳴鶴とその流れ
15-2、近藤雪竹 「七言絶句」「五言二句」
この作品は、近藤雪竹の門人・田中真洲の旧蔵で、真洲が雪竹の絶筆と伝える作品です。雪竹は昭和3年の十月に亡くなり、青山龍巌寺に葬られました。その翌年、弟子らによって『雪竹先生遺墨帖』が編まれました。発起人を見ると、半田神来・川谷尚亭・辻本史邑・沖六鵬・上田綿谷(桑鳩)・松本芳翠(いろは順)らの名が連なり、現在の書壇の重要人物が雪竹の門から出ていることがわかり、その功績の大きさがうかがえます。
絶筆とはいえ、この作品をしたためた時はまだ気力に満ちていたのでしょう。詩文からも、最晩年まで鉄画銀鉤の世界に没頭する喜びが伝わってきます。
雪竹は紀伊藩の藩儒、井上韋斎に漢学を学び、明治12年に日下部鳴鶴に入門しています。鳴鶴が楊守敬と交わるのは明治13年。日本における碑学ブームに若かりし雪竹は大きく感化されたことでしょう。鳴鶴亡き後、鳴鶴門の中心的な存在となります。
雪竹の作品をもう一点。
雪竹の書について、遺墨集巻頭では次のように伝えます。
…就中隷書は最も得意とせらるる所にして、出藍の誉ありき。往年鳴鶴翁は先生の書を評して曰く、余は齢不惑に達して隷書を学びけるが、君は年而立に満たずして既に此の造詣あり、後生真に畏るべしと。一六翁も亦嘗て、先生が楊見山の隷書を臨したるを観て曰く、恰も楊氏の真蹟を観るが如し、前途の進境殆ど測るべからずと。中林梧竹翁も亦、先生の書かれし篆隷の大額を観て、賞賛措かざりきといふ。
雪竹は、日下部鳴鶴門の四天王の一人と評されますが、巌谷一六にも益を受け、金石から明清に至るまで名家の書を学びました。なかでも「張遷碑」や「石門頌」などの漢隷を淵源にした隷書の名手として、鳴鶴や一六、中林梧竹は太鼓判を押しました。雪竹の人気は高く、津々浦々数多くの楷書や隷書体による碑文を手掛けています。大正期には多くの書道団体が結成され、展覧会も盛んになり、雪竹は審査員として多方面で活躍しました。雪竹の絶頂期と重なるこの作品からは、揺るぎない隷書法における実直な息づかいを感じ取ることができます。(谷本真里)