15、日下部鳴鶴とその流れ
15-3、比田井天来「詩書屏風」
これは王維の詩を半双に一首ずつ大ぶりの行書で揮毫した作。穏やかでたっぷりとした線で唐太宗「温泉銘」の雰囲気を想わせ、結体は孫過庭「書譜」が根底にあるように感じます。
この屏風の揮毫より少し前、百双屏風に取り組んだことから行草で漢詩を認めた六曲一双屏風が数多く遺っており、天来の得意とする書きぶりです。落款の「乙丑秋日」から大正14年(1925)、天来54歳の作とわかります。
大正10年ころから松田南溟とともに数多くの古典の研究を進めており、自ら発見した俯仰法を使い自信をもって揮毫しているのでしょう。その集大成として、幅広く古典を学習することを推奨して自ら執筆した臨書と古碑法帖の原跡を掲載した『学書筌蹄』全20集を刊行しています。
比田井天来(1872-1939)は、明治30年(1897)、26歳の時に上京し、哲学館や二松学舎で漢籍などを学び、日下部鳴鶴に入門すると同時に巌谷一六にも教えをうけました。鳴鶴に習った用筆は、楊守敬によって伝えられた羊毛筆による回腕法で、それから用筆法の研究に取り組みます。廻腕法では難しい表現や古典があると感じ、独自の俯仰法を確立していくのです。それは鳴鶴にはない筆法です。50代ころからかたい毛の筆を用いるようになったといい、54歳のこの作も渇筆をみると剛毫筆を使っているように見受けられます。
天来はずっと弟子をとりませんでしたが昭和4年、58歳のときに初めて弟子をとります。それが上田桑鳩です。鳴鶴がそうであったように門下にも師風伝承ではなく、古典に学ぶ方法を期待しました。
書の表現は古典的な天来ですが、「現代書道の父」と評されることがあります。それは、天来門下である比田井南谷や金子鷗亭、上田桑鳩、大澤雅休、手島右卿らが戦後書壇の革新派として「前衛書」「近代詩文書」「少字数書」などの新しい分野を切り開いていったことがあげられるのでしょう。
また、『学書筌蹄』の刊行をはじめ、『書道全集』(戦前版)の監修、執筆なども行い、古典を学ぶ方法を示しました。さらに、学校教育における書の不振に危機を感じた天来は、文検試験委員となり、実技のほかに碑法帖の鑑識や書道史に関する内容を加えます。東京高等師範学校、東京美術学校などでも教鞭を執り、書写書道教育に尽力しました。
天来の書に対する思想は、作品と理論の両面において形になって遺されています。古典を学ぶことの重要さを説くと同時に、書の表現は多様にあることを伝えてくれているようです。(田村彩華)
【掲載作品】成田山書道美術館蔵
比田井天来「詩書屏風」 大正14年 紙本墨書 六曲一双 各141.0×48.2㎝