15、日下部鳴鶴とその流れ

15-4、渡辺沙鷗「陶淵明詩」

 

渡辺沙鷗(1863-1916)は近藤雪竹、丹羽海鶴、比田井天来とともに日下部鳴鶴門下の四天王と称されています。

沙鷗は春日井に生まれ、11歳ころから恒川宕石に書を学びます。4年後には助教授を務めるほどその才能は認められていました。
明治23年、28歳の時に上京した沙鷗は、日本郵船に勤務しながら、鳴鶴に師事します。この時すでに基本的な書の技法は習得しており、鳴鶴はそれをわかったうえで巌谷一六や中林梧竹のもとにも通わせたのでしょう。特に梧竹に心酔した沙鷗は、書の研究の指針としました。

 

 私は梧竹先生の説に従い、其の指導を仰ぎつつ文徴明の何の帖を書いて来いと云われゝばそれを書き董其昌の何の帖と云われゝばそれを書き、米元章、顔真卿、王羲之、六朝と順次に研究して、それを梧竹先生に直して貰ったのであった。
 斯くして荀も自分が之は面白いと思ふ書は誰のでも悉くそれを臨書して、古大家の書風を一通り自分の頭の中に入れて了って、其後に於て初めて自家の本領を発揮するといふことに努めた。否現在もこの方針で努力して居るし、将来も亦同様の方針で進む心算で居る。(「余の書道研究と梧竹先生の書論」『書の友』所収『渡邊沙鷗作品集』再録)

 

沙鷗は、梧竹の説に従って、指導を仰ぎながらその通りに学んだといいます。一通りの書風を学び手中に収めたところで、初めて自らの表現が発揮できる。という方針で今後も励んでいくと述べています。

沙鷗は鳴鶴に手本を書いてもらうことはほとんどなかったようで、実技指導という観点では梧竹を師と慕っていたのかもしれません。

 

 

今回ご紹介する作品は、陶淵明の詩を揮毫した一幅です。

 

 

 

細身で直線的な線は強く温かみがあり、変化に富んでいます。やや縦長の字形に丸みを帯びた転折が特徴的です。字間に余裕を持たせながら一文字ずつ堂々と揮毫しています。
鳴鶴と梧竹との二人の師に益を受けていたことは確かですが、二人とはまた異なり、独自の風を築き上げていることがわかります。

 

また沙鷗は、六書会や日本書道会設立の中心人物で、書の近代的な展覧会の開催に大きな役割を果たしました。のちに日本書道会が見本となって書道作振会や泰東書道院などが結成され、戦後書壇へと引き継がれたことからもそのスタイルを作り上げた功績は大きいといえるでしょう。書道界の未来像を描き、書壇をリードする責任感に富んでいたようです。

 

54歳でこの世を去った沙鷗は、回顧される機会の少ない作家でしたが鈴木方鶴によってその魅力が再認識されるようになりました。方鶴編著『渡邊沙鷗作品集』(昭和51年、木耳社)は沙鷗に関することを知る上で重要な書籍ということができるでしょう。

 

 

 

鳴鶴門下の多くが客観的に古典をとらえているのに対し、沙鷗は主観的に古典をみて深く掘り下げ、独自の世界を築いていきます。その清新な書風は書を学ぶ人びとに強い影響を与えています。(田村彩華)

 

【掲載作品】成田山書道美術館蔵
渡辺沙鷗「陶淵明詩」 紙本墨書 一幅 160.7×36.2㎝ 谷村憙斎氏寄贈