17、貫名菘翁と近代京都の書
17-4 内藤湖南 帖学思想の継承者
昨年末の今上天皇即位の礼が記憶に新しい方も多いとは思いますが、この作には昭和3(1928)年11月に京都御所で行われた昭和天皇の即位の礼を詠んだ漢詩が書かれています。すでに大正15年に京都帝国大学の教授を退官していた湖南は、「致仕臣」と称してこの盛事を喜んでいます。
側筆を多く使い、縦画を太く、横画を細く、強弱をつけた端正な楷書からは晋唐の書風に範を置いた湖南の思想が看取できます。
湖南が生きた明治時代は、いわゆる六朝書道全盛の時代でした。長らく王羲之由来の法帖から多くを学んできた日本の書に変化をもたらした要因は、開国により中国との交流が容易になったことにありますが、女真族の統治下にあった当時の清では政権批判につながる恐れのある学問は停滞し、古い時代の古典を精緻に検証することにより結論を見出す考証学が盛んに行われていました。確かな根拠を基に論を展開する必要があるため、確実な真蹟が存在しない王羲之よりも、王羲之と同時代で、碑や拓が多く存在する北碑が注目を浴びたのです。明治の世になり、革命ともいうべき新時代に心をはせた日本の書家が当時の中国に触れて、盛行していた野趣の気があり、生命感あふれる碑学派の書に傾倒したのは自然の流れだったのかも知れません。
このような風潮に湖南は危機感を募らせます。六朝賛美派として知られた中村不折ら龍眠会の活動を批判、東洋学の研究者としての視点から、安易な六朝碑崇拝に疑問を呈します。異民族が漢族化する中で遺したものと中国でも長い間等閑視されていた北碑よりも時代を超えて崇拝された王羲之にこそ真実があると訴えました。(史的に考えれば、六朝の書は異民族が中国文化を受容する過渡期の遺物といえるでしょう。)
湖南の生きた明治から昭和の時代は、西洋的概念の圧倒的侵襲を受けた激動の時代でした。東洋学の泰斗であった湖南が王羲之を範とする晋唐の古典を重視したことは、日本古来の法帖に学ぶ学書のスタイルの再評価にも繋がりました。まさに京都の書の継承者の一人といえるでしょう。(山﨑亮)
【掲載収蔵作品】
※内藤湖南 七言絶句 1幅 絹本墨書 157.7×41.1cm 昭和3年 大橋南郭氏寄贈