17、貫名菘翁と近代京都の書
17-2、頼山陽 「五言古詩」「合作書画巻」
頼山陽(1780-1832)は大阪に生まれ、幼少から広島藩の儒臣となる父・春水と教養ある母・梅颸のもとで、詩作に興じて育ちます。18歳で江戸に一年ほど遊学しました。20歳で結婚しますが、脱藩を試みた山陽は罪を免れたものの、離縁廃嫡となり、幽閉生活を送ります。やがて謹慎生活を経て自由の身となった山陽は、仕官することを好まず、主に詩文や書画などを教授して一生を過ごしました。菅茶山の廉塾を手伝い、学頭になったこともありましたが、自身の心に従うように、茶山の許可を得て再び出奔します。そうして32歳で私塾を開き、京都に住み着いたのでした。
34歳の山陽は「今日も絹地五幅したため、一向寸暇なし」と伝えます。また、50歳を迎えて京都に母梅颸を迎えました。その母の記録には揮毫に追われる過密スケジュールが記されており、当時いかに名を轟かせていたかを物語ります。“当世書家競“という番付では大関に山陽の名が確認され、詩文のみならず書の腕前も市中に広く知られていたことがわかります。画についても、当時の大家である田能村竹田が「素人ではあるが、玄人でも及び難きがある」と評するほどでした。
山陽は京都の文人サロンで、瞬く間に中心的な存在となりました。この作品は、雲華大含の依頼で宋版の阿弥陀経に跋を施した礼に古銅の蓮の筆架を受け取ったことを詩に詠んで書したものです。書風としては、董其昌や米芾を学び、私淑していた倪元璐の風を感じます。ちなみに雲華大含とは豊後の山国川の渓谷に遊んだこともある間柄です。そこを「耶馬渓」と名付けたのは山陽で、以降その景勝地に多くの文人が訪れるようになったといいます。
https://youtu.be/-LGOpHpGMog
▲「合作書画巻」はこちらからご覧ください
また、この巻子本は、山陽と同郷の岡田半江(岡田米山人の子)が中心となって、山陽や浦上春琴(浦上玉堂の子)と書画を何度かやり取りした様子がわかるものです。山陽が新たに入手した書幅について論じ合います。同世代の文人同士の純粋な交流は、彼らにとって娯楽そのものでしょう。この書画には京の文人サロンの代表的な人物が集います。「濯秀」という斎藤拙堂の題、そして山本竹雲による尾題はあとから加えられています。文人たちの愉悦感は、時を越えてこの筆跡を観る者たちを魅了してきたようです。(谷本真里)※『江戸の書』(二玄社)参照
【掲載収蔵作品】
「五言古詩」一幅 紙本墨書 135.6×28.8
「書画合作巻」一巻 13.9×221.0