17、貫名菘翁と近代京都の書

17-3 松田雪柯 「芳山懐古」「四友図賛」

 

松田雪柯は代々伊勢の外宮詞官の家元に生まれました。早く京都に出て猪飼敬所に漢学を学び、貫名菘翁に書を学びました。雪柯は、青年時代に菘翁が所有する和漢古法帖の精拓に触れ、菘翁の学書法の奥義を継承したひとりです。また、その頃に吉田公均、中西耕石、日根対山、谷口藹山等の画家、池内陶所、斎藤拙堂、家里松涛等の学者と交流しています。やがて帰郷すると、伊勢神宮の祠官を務めました。

 

こちらの幅は、菘翁の風を軸にした帖学的で繊細な印象です。旅先での憧憬を、しっとりと書き進めます。

 

 

 

竹や梅を描いて文墨を象徴する四友を題材に、楊萬里の詩を画賛とした書画からは、身分に捉われずに風流を重んずるという、文人気質な雪柯の世界が広がります。

 

雪柯といえば、明治13年に来朝した楊守敬に、巌谷一六、日下部鳴鶴と共に書法を問うたことでその名がよく知られています。彼らは六朝の碑帖に大いに感奮しました。一六も鳴鶴もやがてその風を書作に表していきます。一方雪柯は、寡作で楊氏来日の翌年に亡くなったこともあり、その足跡をはっきり捉えることはできません。私たちがお目にかかれる雪柯の作品は、いわゆる明治時代という激動の空気感が漂うものとは、質を異にしています。

 

鳴鶴の貫名菘翁への私淑は有名ですが、そのキーマンとなるのが雪柯です。

明治維新後、雪柯は祠官として仕え、山田学校ができるとその教授になり、家塾も開きました。門人には久志本梅荘や松田南溟などがいます。

転機は明治11年のことです。祠官を辞め、一六、鳴鶴の招きによって上京、一六の家に三年間寓居しました。一六より8歳、鳴鶴より12歳年上の雪柯はリーダー的存在で、段玉裁の『段氏述筆法』を三人で読んだ翌年には、雪柯執筆によって私家版を刊行しました。さらには「述筆法堂清談会」を主宰し、一定期間毎週月曜日に一六や鳴鶴を含めた多くの人びとに教鞭をとっていました。二人ともその勉強会は皆勤賞だったようです。そこでは菘翁に端を発する雪柯の書法や詩書画鑑識のための指導が展開されたことでしょう。

 

鳴鶴は『鳴鶴叢話』で「私には三人の益友がいる」といい、そこに雪柯、一六、楊守敬の名を挙げます。菘翁の研究成果は、こうして雪柯を通じた脈からも派生して、近代書道の胎動期にたしかな息吹を吹き込みます。
松田雪柯が長寿を得ていたら…明治の三筆に名を刻んでいたかもしれませんね。(谷本真里)

 

【掲載収蔵作品】
「芳山懐古」 一幅 紙本墨書
「四友図賛」一幅 紙本墨書