17、貫名菘翁と近代京都の書

17-5、煎茶会、書画会に集う人びと    富岡鉄斎「条旗」「茶褥」、「山紫水明処書画会合作」

 


※1 富岡鉄斎「条旗」表

 


※1 富岡鉄斎「条旗」裏

 

これは煎茶席を設けたときに用いられる条旗です。茶席をしていることが目に付くように掲げていました。富岡鉄斎(1836-1924)最晩年の揮毫によるものです。「清風」の語は、江戸時代の黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖として有名な賣茶翁の時代から伝統的に用いられていました。

 

 


※2 富岡鉄斎「茶褥」 松雨蕉風入影来。八十九叟鉄斎。

 

 

こちらの茶褥も条旗と一具をなすもので、実際に茶道具の下に敷いて使っていたのでしょう。

 

鉄斎は早くから富岡家の学問である石門心学を学び、岩垣道昂について漢学を学んだのち、大国隆正の門で国学を身につけます。絵は浮田一蕙や小田海倦に手ほどきを受けますが、師風を全く感じさせない独特の表現に至りました。維新後に山中信天翁、江馬天江らとともに西園寺公望の立命館に招かれています。しばらく神職を務め、京都市美術学校などで後進の指導にもあたり、画壇で活躍する一方で、画の材料や和漢の歴史書、詩文などに高い関心を寄せ儒者的な一面もありました。

鉄斎はあらゆる書画や法帖類などを昇華して、大胆にそして自在に筆を運ぶ作品が多く見受けられます。それらと比較するとこの条旗や茶褥は、いくらか慎重な筆運びと見られ、最晩年を迎えた鉄斎の表現者としての境地を示しているようです。

晩年は、内藤湖南(1866-1934)や狩野君山(1868-1947)、長尾雨山(1864-1942)らの京都学派の学者たちと交流がありました。感覚の優れた鉄斎は、京都の学者らを通じて最先端の学問を取り入れ、これまで培ってきた自身の知識と融合していくことを楽しんでいたようです。

 

 

 

これらは茶褥と条旗の箱書きです。

大正13年、鉄斎没年の揮毫であることがわかります。鉄斎は大正13年12月31日に亡くなっており、数えで89歳。この年より九十歳の落款を用いることもありました。

 

この時代はこうした煎茶会が頻繁に行われていました。
頼山陽らの時代から文人たちに愛された煎茶は、維新後もその様式を発展させ、古書画や古器物、文房具類の展観などが茶席とともに設けられることが一般的となりました。文人たちが所蔵する書画類を持ち寄って鑑賞し、それが彼らの書画に影響していったのです。古器物などに対しても高い関心があったことがわかります。

 

また、各地で書画会も頻繁に行われ、文人たちは詩書画の制作をしながら時には寄り集まってその場を楽しんでいたようです。

 


※3

こちらは明治11年5月、鳩居堂主人、熊谷直行が設けた書画展観会で執筆された合作です。場所は鴨川に近い頼山陽の旧居である山紫水明処。詩や書画にすぐれ、煎茶に親しんだ頼山陽の面影を残す場所で、山中信天翁(1822-1885)、宮原易安(1805-1885)、田能村直入(1814-1907)、板倉槐堂(1823-1879)、江馬天江(1825-1901)、村瀬雪峡(1827-1879)の京都の文人6人が集まって書や画を寄せています。

 


山中信天翁

 


田能村直入

 


村瀬雪狭

 


宮原易安

 


江馬天江

 


板倉槐堂

 

この日の次第を記した識箱は村瀬雪峡によるものです。

 

   

 

表:西京鴨川水明楼小集諸先生書画
裏:明治十一年五月鳩居堂主人為余饗応設古書画展覧会於西京鴨川水明楼諸先生咸集
終日扛歓又香淪茗相与賞鑒以為娯楽使人怡然情逳神賜矣於是諸先生交援筆随意作
書画以為一幅又期他日有感此韻事也 雪峡

 

鳩居堂のような町衆が会主となる書画会が各地で類繁に開催されました。
書画を求める人びとの要望に応じる場だけでなく、文人たちが互いに交流して知識を養う場としての意味合いもあったようです。文人たちは紙面に書や画を交え、配置や内容、表現に気を遣いながら仕上げていくため、他者の考えや表現に対する理解も求められます。だからこそその結びつきを強めたのでしょう。書画会は文人たちの書を形成する重要な場でもあったようです。(田村彩華)

 

【掲載作品】成田山書道美術館蔵
※1「条旗」富岡鉄斎 大正13年 一竿 絹地墨書 56.1×40.1㎝
※2「茶褥」富岡鉄斎 大正13年 一枚 絹地淡地墨書 50.8×67.4㎝
※3「山紫水明処書画会合作」山中信天翁、宮原易安、田能村直入、板倉槐堂、江馬天江、村瀬雪峡 明治11年 一幅 紙本墨画墨書 136.3×66.2㎝