18、中野越南
18-2、 中野越南 “真の書“を求めて 「直筆・側筆の論」
京都で帖学的な書を追究した中野越南は、内藤湖南の影響も受けながら40年という長い時間をかけて「直筆が是か、側筆が是か」について模索しました。
大正7年頃、越南は京都師範学校の附属小学校において、巻筆を硬筆と同様に活用することをめざして、硬筆書写の研究をテーマに掲げていました。内藤湖南は自身の子が越南の授業を受講していたこともあり、ある時その授業を参観します。それが機縁となり、越南は湖南から用筆にはさまざまな問題があることを伝え受けるのでした。湖南は石刻に特有の刻意を筆毫で再現することを好みませんでした。越南はこれによって、刻の向こうにある真跡をいかに筆管によって再現するか、という命題に向き合うことになります。
こちらは越南による日々の雑録です。冒頭の問題への回答として重要な手掛かりが示されているものです。
この「備忘録」の始まりの年紀と重なる頃に、越南は第一回朝日現代書道二十人展に出品しています。直筆を主とした運筆に、時折点画に側筆が認められる作品です。昭和31年の制作です。
また、同年の「風飄花片」は「側筆が是か」を意識しているようです。
「備忘録」の昭和32年の頁には、三月一日に自身の求める用筆への手応えを覚え、四月三日には「真側法完成」とあります。そして五月三日に「晋人法了得」、七月十六日に「遂ニ此十七日彼岸到達確認」、八月二十日に「嗚呼偉哉直法」、十月十七日に「直法遂二完成」、十月二十九日に「直法ノ理解ト技術完結」…というように「直筆」完成への道程が記されています。
そこから、用筆の核心がその年に定まったことがわかります。かねてから求めていた回答が昭和32年以降の作品に結実することになります。
昭和32年前後の作品を、作風の上から直筆・側筆と見極めることはなかなかできません。しかし、越南のなかに引っかかっていた大きな問題が解決され、戸惑うことなく筆が運ばれているように見えます。
要するに作意の書はだめだ、人間が完成し、技術が高度になっても、結局無心になって書いたものでなければ真の書ではない。
無心という言葉に象徴される越南の書的世界は、直筆の回答を得てより深みを増していきます。「弘法大師作七絶詩」の融通無礙に筆を運ぶ章法に、越南の心持ちがよく表れています。最期に至るまで、越南は直筆を軸に定めることで、あらゆる迷いを払拭し、制作に取り組みました。
平安古筆の再現に手腕を発揮し、田中親美にも高く評価された越南ですが、晩年は王朝的な仮名をすっかり手離しました。平安貴族の模倣をやめ、王羲之から真仮名、草仮名を経て洗練された仮名の流れを独自の感覚で再現すべく、漢字と仮名という垣根を取り払ったのです。求めたのは漢字や仮名に分類のできない「本当の書」。そう気づいた越南は無心で書に向き合い、やがて精神性と技法が高度に一致する世界を展開します。(谷本真里)
【掲載収蔵作品】
「風飄花片」昭和31年 1幅 139.4×34.2
「高啓五絶」昭和36年 1幅 139.5×33.5
「弘法大師作七絶詩」昭和39年 1幅 135.7×54.8