21、赤羽雲庭

21-1、赤羽雲庭 「凜厳」

 

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縦方向に筋状の墨垂れの痕。白隠「常念観世音菩薩」のような、筆画に墨だまりを残した作品に触発されたのだろうといわれるこの作品。琳派絵師の技巧、たらし込みのようでもあります。古墨によるこの独特な色彩は、言葉では表しがたい古蒼の趣があります。

金箔をあしらい、古朴な風合いに仕立てた洋額調の三角縁は、和様折衷の特注品です。筆者の好みが表れています。

 

この作品は、戦後の書道界で活躍し、青山杉雨と並んで時に「赤鬼、青鬼」と併称された赤羽雲庭の代表作で、昭和36年の日展文部大臣賞受賞作です。

 

雲庭は明治45年に神田岩本町でガラス会社を経営する裕福な家に生まれました。書は13歳で日蓮宗の僧侶であり西川春洞門の七福神の一人とされる花房雲山に、27歳で漢学者の角田孤峰に就きます。そうして早くから古典の源流を尊びました。また、実業家として成功していた雲庭は、日頃から書画を愛で、机辺には常に文房具の良品を置いていました。岸田劉生のコレクションについては、有名作を含む三十点ほど所有していたといわれます。古今東西の多岐にわたる絵画や音楽に触れ、文墨に親しむ姿は、文人気質がにじみ出ます。当時の書家の間でも雲庭は特異な存在だったようです。

 

書風は日展に出品を始めた昭和20年から、王羲之を頂点とする晋唐から宋にかけての書法を中心に展開し、帖学的な王道の書法をもって世に認められました。しかし、昭和30年代に入ると作風は一転、墨蹟調の大字を書くようになります。

 

昭和28年『書品』(一月号)は、赤羽雲庭が墨蹟の世界の入口に立った経緯を伝えます。かつて西川寧に墨蹟をどう思うか問われた際、雲庭は「書として上手でないと思うので興味を持ちません」と答えました。それが大燈の墨蹟に心を留めたことにはじまり、東坡や米芾を媒体とした表現に有効性を見出し、やがて大雅、玉堂、鉄斎、ルオー、梅原らと心の中に一連したフォービズムを築き上げた…とします。二王に因る態度を貫きながら、「以前には興味もなかった墨蹟調が、或は私の前途に待受て居るのではないかと考え、又それの持つ引力のようなものに牽かれる危険を感ずるようになった」という雲庭は、ある意味自覚的に墨蹟の世界に自ら身を投じたようです。

 

雲庭は当時の書壇の重鎮である鈴木翠軒や豊道春海にも実力を認められ、津金寉仙や西川寧の影響も多分に受けながら活躍しましたが、この作品「凜厳」を一つの節目に、徐々に書壇の中枢と距離を置くようになります。雲庭の書はいよいよ内向的ないとなみとして熟していくのです。一期一会に書に向き合うことで生まれた雲庭のこの作品には、古墨の香りに通じる格調高さがあり、展覧会主義の時代にありながらどこか禅味を帯びた複雑な妙味があります。(谷本真里)

 

【紹介掲載作品】
赤羽雲庭「凜厳」昭和36年日展文部大臣賞 一面 紙本墨書 205.0 ×79.2