21、赤羽雲庭
21-3、古法を学ぶ「臨書折帖」
これは王羲之を臨書した折帖です。
雲庭はよくこのような大型の画仙紙の折帖を守尾瑞芝堂で特別に用意し、臨書に取り組んでいました。薄めに磨った乾隆墨を好んで使っていたようです。縦に長い大型の折帖のため、一行が五文字以上になるものもあり、気脈の通った表現を可能にしています。展覧会に出品する作品制作とは異なり、修業的な姿勢で取り組んでいました。
遺された折本の種類は王羲之、王献之が数多く、羲之以前の「石鼓文」や「開通褒斜道刻石」などの篆隷や「論経書詩」、造像記、顔真卿や宋、明清時代の書など幅広い古典が確認できます。淳化閣帖や澄清堂法帖などの集帖(法帖)を見ていたのでしょう。
年紀を記したものも確認でき、昭和20年代後半から40年代にかけて積極的にこのような臨書に取り組んでいたようです。
13歳の時に西川春洞門下の花房雲山(1870-1936)に師事し、王羲之「集字聖教序」をはじめとする古典を学ぶことの大切さを学んだ雲庭は、雲山没後、角田孤峯(?-1943)に書論や説文、詩なども学びます。
雲庭は次のように回想しています。
わたしは昭和13年から五年間ほど、角田孤峯先生に師事しました。先生は――王羲之、王献之を引き続き勉強しなさい。唐の人も宋の人も皆二王を学びました。王羲之、王献之を学ぶかぎりあなたは唐の三大家とも宋の四大家とも兄弟弟子なのですよ――今でもわたくしは先生の言葉を実行しています。二王の書を学ぶことは、究極の目的はそれに似ることではなく、すぐれた点画の配合を学ぶことです。すぐれた点画の妙を会得しなければ真の書の美は理解できません。(『現代の書道Ⅱ』、「行書Ⅰ」、講談社刊、昭和43年)
「王羲之、王献之を引き続き勉強しなさい」という言葉から、二王の学習は雲山に習っていたころから続いていたことがわかるでしょう。師風を追わず、古法に遡って学ぶことを旨とした考えは、雲庭の書に対する姿勢に多大な影響を与えたに違いありません。また、雲庭は西川寧の論説に啓発され、王羲之の大切さがわかったといい強い影響を受けます。
雲庭は、長い間二王の臨書に熱中して取り組み、「蘭亭序」を毎日一本臨書しようと試みたことがありました。
そのうちの一本をご紹介します。箱書きには次のようにあります。
昭和廿三年頃蘭亭叙ノ各種ヲ毎日一本臨書スルコトニ
定メタルモ半年ニテ五十数本書シテヤム此其ノ一本ナリ
昭和四十三年五月福岡市大丸百貨店ニテ赤羽雲庭書作品展ヲ
ナスニ当リ装ヲ改メ出陳ス 于霊芝艸堂雲庭自題
昭和23年(1948)11月「臨張金界奴上進本蘭亭叙巻」個人蔵
見てわかるように、雲庭の臨書態度は徹底しています。字形や線質、運筆などのあらゆる観点に注目し、原物に寄り添って臨書しています。
「私の臨書は法帖から自分が感じ取ったものを、自分流にそのまま表現し、誰々、と先覚者の臨書法や筆法を踏襲しない」(『書道講座』1954年)という雲庭の臨書は、古人の意を汲むために行われました。こうした臨書態度によって王羲之や王献之などの書法の神髄を会得することができたのです。
紙に目を向けると、朱で「乾隆四十年 行有恆堂製羅紋宣」と押してあるのが確認できます。臨書にも上質な紙を用いていました。
昭和20年代の作品は、二王を習いこみ、その書法に宋の蘇東坡や明清の長条幅の風を加えた作品を数多く遺しています。30代にして、王羲之を書かせたら同世代に赤羽の右に出る者はいない。とまでいわれ、行草書の名手として評価された雲庭は、日展で連続して特選を受賞。新世代のスターとして注目をあびたのです。その背景にはこうした臨書に取り組む姿がありました。
「点画の配合の良さ、線質の良さ」良い書の条件はこの二つに限られます。すぐれた点画の妙を学びとった上でなくては、内容の優れた近代の書は生まれないと思います。
こう話す雲庭は、臨書を通して様々な古典の核となる趣や古人たちの書の本質を捉えようとしていたのでしょう。(田村彩華)
【掲載作品】
「臨王羲之帖」 44.3×11.2㎝ 十帖 成田山書道美術館蔵
「臨張金界奴上進本蘭亭叙巻」 昭和23年(1948) 32.6×131.3㎝ 一巻 個人蔵