23、印と印譜
23-2 日本の印譜『印印』
漢学の教養が幅広く共有されることになった江戸時代、日本の文人たちのあいだにも中国の士大夫の教養が伝播しました。篆刻もその一つです。明末清初の影響を受けた十七世紀後半から十八世紀前半の篆刻は試行錯誤の時代といえるものでした。その間、獨立性易や東皐心越の来朝は刻法の移入に大いに益しました。やがて高芙蓉が登場すると、秦漢の古印の研究に根ざした印風が全盛を迎えます。さらに近代は中国との交流が盛んになったことにより学習環境が整い、清朝の情報を自らの制作に反映できるようになりました。そうして五世浜村蔵六や初世中村蘭台のような作家が登場します。
当館収蔵の印譜集に、日本の昭和初期から戦後にかけての篆刻界の様相や時代観を伝える希少本『印印』があります。園田湖城の主宰する同風印社刊行の機関誌で、各々巻頭には古銅印や明清名人の印影を中心に日中名家の書画コロタイプや金石拓本等を紹介し、社友の印影を実押で成譜します。『印印』全八十二冊に、前身の『同風印林』と臨時号の『展観記念同人印聚』を加えた八十四冊をひとまとめにしたコレクションです。糸綴じの一冊一冊が見事な印譜として成立しています。目次、掲載古印等は権田瞬一先生が目録化しました。一揃いの同誌は大変珍しく、一群の鈐印から原徂山(早期同風印社の事務局を担当し、終始に亘り同紙に参画)収蔵本を核とするものではないかと思われます。
発行者である園田湖城は、滋賀の判子屋に生まれ、幼少時から文芸に触れる機会に恵まれて育ちました。二十八歳頃に平安印会、三十九歳で同風印社を興し、日展第五科加入時から審査員を務めるなど、日本の篆刻界を牽引した一人です。『印印』収録印の一端をご紹介するだけでも、その刊行が湖城の特筆すべき業績であることが伝わるかと思います。
大正十五年から昭和二十六年まで刊行された『印印』は、刊行部数が少ないながらも篆刻愛好家のバイブル的存在だったようです。第十六集には、昭和六年十二月五日・六日に、同風印社主催、大阪毎日新聞社後援の篆刻展が京都大毎会館樓上で盛大に開催されたことを報告しています。津々浦々から集められた篆刻愛好家らによる出品は千点近くあったようです。内藤湖南や長尾雨山も出品しています。展覧会は八百人もの来場者を数え、篆刻の興趣に人々の関心が集まっていたことを伝えます。また、昭和十二年(第三十三集より)には、大阪松坂屋印展の参考展示に供した印から優秀なものを選んで印譜を編み五十部限定で発行することを発表しました。その予約を受け付けたところ、好評につき即時に予約を締め切ったとあります。自慢のコレクションをぜひ『印印』に収めてほしいという篆刻愛好家もいたことでしょう。
同誌は当時の刻印の所在や知られざる名刻、社友による刻風の傾向や活動内容を伝えるとともに、戦時下にありながら刊行をどうにか継続しようとする湖城や湖城をとりまく人々の直向さや絆をも伝えます。社友を中心とした人々の連なりも見えてきます。昭和十五年には若かりし村上三島(以後十六回寄印)や谷辺橘南(以後五回寄印)も入会しています。
第七十一集では、昭和二十二年の二月に京都の大丸で開催された同風印社篆刻展の様子を写真付きで伝えます。当時の様子を伝える貴重な資料です。
昭和二十三年の第七十四号では、「印々の刊行は前年度は終に三集に止どむ。今更具陳するまでもなく、白紙、印刷、製本、郵税等すべて困窮して至難の一途たり。」として、地方社友に白紙があれば相当価格で譲ってほしいと呼びかけます。昭和二十四年の刊行数は二集に留まりますが、苦境を乗り越え昭和二十六年まで絶えることなく刊行された『印印』は、篆刻に寄り添った人々の揺るぎない信条が表れているようです。
こうした時代を経て、発行部数の極めて少ない『印印』が全刊そろっていることは奇跡といっても過言ではありません。その魅力を改めてご覧いただきたいと思います。(谷本真里)