25、尾上柴舟、田中親美、鈴木梅渓
25-3、鈴木梅渓「臨書帖」、絶筆「和漢朗詠集」
鈴木梅渓(1887-1973)は、教育者と書家としての二つの顔を持ち、田中親美に師事して古筆の研究をしていました。
親美とともに開催した古筆講座では、梅渓が解説を担当。区切り区切りで親美に確認し、親美が大きくうなずき、進行していたといいます。弟子は取らなかった親美ですが、梅渓のことは信頼していたのでしょう。親美の編集による『瑞穂帖』の解説は梅渓が手掛け、題字及び題簽、古筆の極札も梅渓によるものです。時に親美の右腕となって活躍しました。
梅渓は書の研究において「先ず第一に眼を養うこと即ち書の鑑賞を行なって、書に対する知識を深め批判力を養い更に豊かなる情操を涵養して、おのれの書の理想像を作ることが極めて大切である」と述べ、鑑賞のことを「手習い」に対して、「目習い」と呼び、その両方が揃わなければ優れた書は生まれないという考えを示しています。模写はその両方の効果を持つとして推奨し、生涯続けました。
これは梅渓が古筆を模写した「臨書帖」です。
当館には、大正12年から14年にかけて制作された臨書帖があり、「本願寺本三十六人家集」や「高野切」「元永本古今集」「寸松庵色紙」など全29帖が確認できます。
料紙の模様や切箔、紙継の部分は丁寧に鉛筆でかたどり、虫喰いの跡まで鉛筆や毛筆で丁寧に書き込んでいるものもあります。また、飛雲の装飾は墨の濃淡を利用して描いています。細部まで気を配り、原本の姿を忠実に再現しようとした様子がうかがえます。
この方法は複製本を数多く手掛けた親美による影響が大きいと思われ、親美の精神を受け継いでいるようです。
「寸松庵色紙」の臨書帖は29枚あり、題簽から大正12年1月20日に書き終えたことがわかります。
田中親美による複製本が発行されたのと同じ年で、梅渓の模写したものと綴じてある順番と枚数とが一致します。
「寸松庵色紙」の原本と田中親美の複製本は行のゆれ方や字形がやや異なり、多少の違いが見受けられますが、梅渓の模写と親美の複製本と照らし合わせるとみごとに一致します。
梅渓が親美の複製本をもとに模写をしていたことがわかると同時に、梅渓の忠実な臨書態度に感心します。
梅渓は、「模書によって墨の濃淡、渇筆はもちろん、紋様、虫喰いの跡迄、原本のまま写して、その気分を味わい得た時に、その用紙や墨の種類、用筆等委しく研究が出来るようになり、従って筆者の文字を正確に把握することが出来」るといい、この考えを実践していたことがこの「臨書帖」からわかるのです。
また、梅渓は親美の料紙を大切に保管していました。
親美の料紙はよくすべるからといって使わない時期もあったようですが、亡くなる4日前、親美の唐紙に書きたくなり、「和漢朗詠集を唐紙六十六枚に書いて田中親美先生にお目にかけなければ」(『鈴木梅渓の思いで』)と、いきなり墨を摺って書き始めたといいます。しかし、残念ながらそれは叶わず、梅渓が亡くなってから妻ちをが親美のもとへ届けました。こちらが絶筆の「和漢朗詠集」9枚です。
骨格のしっかりとした厳格な書で、古筆を学んだ梅渓ですが、独自の風を確立しています。
この作品を見た親美は「これは大変に出来がよいね」と褒めたといいます。このことからも梅渓と親美は互いに認め合い、強い信頼関係にあったことがわかります。親美は梅渓の腕前も考え方も評価していました。
親美から指導を受け、積極的に古筆研究に励んだ梅渓は、古筆の尊さや良さを後進にも伝えたい、という強い意志があったのでしょう。古筆の魅力を分析して、自ら『てかがみ』を出版し解説も手掛けています。
今週は、尾上柴舟、田中親美、鈴木梅渓3人の作家を取り上げました。
柴舟と親美はともに大口周魚からの影響を受け、『書道全集』の編集にも携わり、学術面において重要な役割を果たしました。また、梅渓の古筆研究の出来栄えを認めた柴舟は、『書道全集』(戦前版)の平安朝仮名解説を依頼しており、その力量を評価していたようです。親美と梅渓は先に述べたように、師弟関係でもあり、互いに認め合う存在でもありました。
この3人は相互に影響し合いながら、それぞれの研究や役割を担っているように見受けられます。特に平安時代のものに強い関心を示している点においては3人に共通するでしょう。平安古筆をはじめとする日本の書の普及に尽力した彼らの功績は大きいといえるのではないでしょうか。(田村彩華)
【掲載作品】成田山書道美術館蔵
鈴木梅渓「臨書帖」
鈴木梅渓「和漢朗詠集」 六曲一双 彩箋墨書 各26.8×38.5㎝