26、伊藤鳳雲とそのコレクション
26-2、伊藤鳳雲 「三穂の浦」「わが家の」
日展に書が第五科として加わってから、十四年目を迎えた昭和三十五年。この年、仮名作家にとって晴天の霹靂とも言うべき出来事がありました。当時、仮名作品は巻子や帖が出品の九割を占める傾向にあった中で、出品規定が大幅に改訂されたのです。その内容は「横巻、折り帖等は受付けない」というものでした。
同じ年に伊藤鳳雲が創刊した『かな研究』には、「新しい時代の作品形式に合った新しい時代のかなが要求されることになる」ことを伝えます。また、その巻頭には日展に書が参画した時から大字仮名を出品していた田中塊堂の言葉と論考を巻頭に据えます。当館の鳳雲のコレクションは、大字仮名の胎動期からの日展の受賞作を含む、昭和三十年代から最晩年までの変遷を辿れるものです。それらは当人の書歴のみならず、大字仮名が展覧会制度によっていかに進展したのかをひも解く資料でもあります。鳳雲は現代の作品の在り方を「一作一作、作品を通して実証してみせること」と語ります。それらには現代における大字仮名を象徴する作品が、含まれているのです。
こちらは、平成十一年の現代書道二十人展に出品された作品です。形式は、伝統的な和漢朗詠集の書式を思わせます。伝統的に踏襲されてきた形式でありながら表現は現代的で、最晩年の鳳雲が示した一つの到達点として捉えることができます。
右隻の漢字の結構は懐が広く、筆意は雁塔聖教序などの唐初の楷書や王羲之に連なる帖学的な古典に求めたように見え、和様の穏やかな風とは一線を画した複雑な筆法です。左隻の縦への流れを強調した流麗な仮名は、王鐸や傳山の章法も参考にしているようです。軟らかな長鋒を用い、穂先を効かせながら強く粘りのある線によって、「言葉の律動」を形に留めつつも、ますらおぶりな仮名の表現を可能にしています。
鳳雲は師である田中塊堂とともに新しいかな表現を模索し、西村桂洲に漢字も学びました。約四十年を経て、鳳雲の仮名の新たな表現が一つの到達点に達したことを、この作品を通して示したのではないでしょうか。漢字と大字仮名を並行させた表現を可能にしたことは、大字仮名が漢字と同等の表現性を獲得した証といえます。
また、現代性を追究した鳳雲は「字形、線質ならびに行の構成などを、現代の一般の人に納得してもらえるように研究して行きたい」と語り、「光のある書」を掲げながら、余白の生きたさわやかで明るい作品を意識的に制作しています。
“光のある書“は、白の部分を重んじることに発する。字形のふところを広くし、作品全体を明るくする。渇筆の線も余白と同じ効果を発揮することに留意したい。運筆の緩急を重んじ、線に律動を与え、時間的な流れを線に与える。連綿線はむしろ少なくし、意連を重んじる。細めの線を効果的に用いる。この結果として、筆画の黒とそのまわりにある白との対照に妙味が出て、”光のある書“が生まれるのだ。
こちらの自詠歌は、自宅の庭に咲き誇る百日紅の花をモチーフにしています。仮名表現による漢字仮名交じりの書作品といえます。読みやすさを前面に出しながら、鳳雲が主張した「一画二折法」が「の」や「わ」の仮名によく表れています(昭和60年の「かな書苑1」)。この作品は一字一字の表情を大切にして仕上げる作品として敢えて「かなの連綿というものに反発して、連綿しないかなの作品」です。このような時代にふさわしい作品も手掛けています。
当館には鳳雲旧蔵の古筆のコレクションもあります。それらは鳳雲の原点が桃山文化にあることを物語ります。昭和35年に鳳雲が創刊した雑誌『かな研究』においては競書よりも純粋な仮名文化について学術的に研究討論することを重んじました。寛永の三筆とその周辺に象徴されるような、和歌が漢字仮名交じりで大ぶりに書かれるようになるという大変革を遂げた桃山文化を鳳雲は理想に掲げました。その革新を戦後の仮名の変革期に重ねて、自らも昭和時代の新たな書の創造者になろうとしたのでしょう。(谷本真里)
【所蔵掲載作品】
「三穂の浦」(万葉集) 平成十一年第四十三回現代書道二十人展 彩箋墨書 二曲半双 各109.0×34.0
「わが家の」(自詠) 平成七年千草会書展 紙本墨書 一面 82.1×89.7