28、書と人
28- 2、正岡子規 「五月雨五句」
子規にとって、書くことは生きることでした。
子規の終わりといえば、絶筆三句がよく知られています。それは明治35年の9月18日の午前11時頃に書かれたもので、最期に寄り添った河東碧梧桐の『君が絶筆』に描写されます。死に際にあっても、生命力の最後の一滴を絞り出すように筆を執ったのです。自筆で遺された、辞世の三句には糸瓜が描かれます。咳をとめるための糸瓜は、結核を患い長い闘病生活を送った子規にとって身近なものでした。そんな子規の終わりに象徴される糸瓜が、この「五月雨五句」にも描かれています。
五月雨や上野の山も見あきたり
病人に鯛の見舞や五月雨
病人の枕ならへて五月雨
五月雨や棚へとりつくものゝ蔓
さみたれや背戸に落あふ傘と傘
これらの句は『子規全集』に「五月雨」の題でまとめられています。時は明治34年の夏。これらの一部は新聞や雑誌で活字になっており、この書幅に仕立てられた懐紙はその草稿と見られます。子規はこの年の6月10日頃に、谷中の自宅の庭に糸瓜棚を作らせました。五月雨に恵まれた糸瓜は瞬く間に成長し、この句中の「棚へとりつくものの蔓」となったのでしょう。
実はその糸瓜棚を作った日には、碧梧桐が訪れています。二人が見た同じ糸瓜棚は、やがて終わりを告げる子規の句に実ります。「五月雨五句」は、終焉に向かう子規の心情を、糸瓜を起点にして物語ります。
さらに、その箱書きからこの書幅の伝来の経緯を詳しく知ることができます。
二重箱の外箱は透き漆がかけられ、光沢があります。表には「子規筆五月雨五句」とあり、裏には
箱書 高浜虚子
附 長塚節及び門間勝弥書簡巻
初代 長塚節
二代 岡麓
三代 門間春雄
四代 池田龍一 蔵
とあり、長塚節、岡麓、門間春雄という文学者の手を経て、池田の手中に収まったことを伝えます。この箱には二点が収められ、それぞれに内箱があり、子規の「五月雨五句」が納められた桐箱の蓋表には虚子が箱書きを認めています。
もう一つの箱には、長塚節の書簡二通と門間勝弥の書簡一通を一巻にまとめた巻子本が納められています。
こちらの箱書きは池田龍一の揮毫であることから、子規の書幅に合わせる形で書簡巻を合わせ、一緒に収めたようです。
長文の書簡には、長塚節が大切な子規の書幅を自らも親しい門間春雄に譲渡することを岡麓に強く勧める様子や、やがてその手紙とともにさらに池田龍一へと渡る様子が書かれています。門人たちの想いとともに手から手へと、子規の書幅が大切に伝えられたことを裏付ける内容です。
35年足らずでその生涯を閉じた子規ですが、その教えは門人たちによって『アカネ』や『馬酔木』、『アララギ』と受けつがれ、やがて子規の写生歌が歌壇を制覇するに至ります。子規の肉筆を有するということは、門人にとって大きな意味合いを持っていたようです。子規を敬う気持ちそのものがこれら一具からじわじわと伝わってきます。(谷本真里)
【所蔵掲載作品】
「五月雨五句」明治34年 一幅 35.0×48.0 紙本墨書
「長塚節・門間春雄書簡」 128.0×50.0 紙本墨書